夏の覚え書き

2014年、学生だった頃のメモ

 

《陽の当たらぬ場所で生きる生物たちの日記》

⑴8月1日、学生団体の活動でお借りしている横浜の農家さんのサツマイモ畑へ。子供たちとともにつる返し。
⑴-①畝の間に入りつるを両脇に返しながら進む。全てのつるを返し終えたら草むしり。1列終えたら次の列へ。
つるは伸びきっているので、畝の間の道は厚いサツマイモの葉の層に覆われ、畑の生物達の避暑地と化している。つるを返すと無数のダンゴムシ、バッタ、トカゲや名前のわからぬ虫たちが姿を現し、急に差し込む陽光と外敵の襲来に右往左往する。
⑴-②畑の中央には鳥&モグラよけを設置。モグラ自体は芋を食べたりはしないが、モグラが掘った穴からネズミが侵入し芋を食う。プロペラが回る振動が支柱を通し地中まで伝わる。モグラたちはこの振動を嫌うらしい。

⑵夜中に研究棟裏で蝉の抜け殻が歩いているところに遭遇。幼虫たちは安全に脱皮できる場所を求めて小道を横断中。脱皮には時間がかかるので外敵からの襲来を受けないように、この場所選びは慎重でなくてはならない。脱皮前に動いている姿を初めて見たが、蝉の抜け殻自体は非常に馴染み深いものなので、蝉の抜け殻の姿のままで動く幼虫たちからゾンビ感というか、化石感というか、そんなようなものを感じた。

⑶夏は動植物が健やかな生活を営んでいる。わたしも飼い犬も夏バテしている場合ではないと思った。

 

2018年、年々夏バテも辛くなる初夏のメモ

 

甥っ子は数ヶ月前から、流動食を始めた。一歳に満たない彼に用意されるのは、薄味で固形でないものばかり。流動食を始める前から食に興味津々だった彼だが、最近はより一層その興味が増しているようだ。他の人が食事を始めると凝視し、俺にも寄越せとばかりにシャウトし始める。

人の食べているものを見て欲しがるというのは、野生的で興味深い行為だ。一方で不思議にも感じるのは、彼は決して多くの食べものや味を知らないし、ましてやそれを好きかどうかどころか、有害か無害かさえも知らない。それにもかかわらず、『それを食べたい』と主張することは、大人になった私には決して立ち戻れない欲望なのだと感じる。

夏バテが年々厳しくなる。体と体は繋がっている。暑いから食欲がないというのは、子供の頃には経験したことがなかった。それは老いなのかもしれないが、私の体がもっと私自身に近づいたように感じる。それと心と体も繋がっている。体と心も繋がっている。と、歳を重ねて深く知る。私の体が、心が、思考が、少しずつすべて私のものになっていくような気がしている。

 

 

dónde están Los Andes?

今朝、ボリビアで出会ったチリ人が、日本人監督によるアンデス高地のボリビア人の暮らしを描いた映画『el regalo de la pachamama 』(邦題『パチャママからの贈り物』)のリンクを送ってくれたのですっかり里心がついてしまった。そうでなくても今日は少し憂鬱な1日で、なんだかすっかりメソメソしている。

パチャママからの贈り物』は4月の国際ナンチャラデーに四谷のスペイン語学校で上映されていたのだが、結局見に行かなかった。おそらくDVD化されていないようなので、来年こそは見に行こうと思う。

https://youtu.be/_U4yATPnlZU

 

さて、里心のついたわたしは、彼と出会ったOruroのカーニバルの写真を見ながらため息をついては、アンデス山脈が見えない〜と嘆くのだ。あぁ、斯くも美しき国、ボリビアよ〜どうしてわたしはそこにいないのか。

f:id:callmedomechan:20180516123958j:image

Oruroの鉱山で出会った少女(彼女は鉱山で働いてるわけではないが)は、私の英語を話せることを褒めたけど、彼女は完璧にスペイン語ケチュア語を話していた。(彼女は母や祖母とのコミュニケーションにケチュア語を使っていた)

Uyuniのツアーのガイド兼ドライバーの同年代の青年も、完璧にスペイン語ケチュア語を話していて、スペイン語話者のツアー参加者にケチュア語を教えていた。しかし、彼もやはり英語を話せるようになりたいのだと言った。

 

わたしはその時、彼らの文化をどれほど美しく感じ、そしてこれからその美しい文化を守るためにその言葉が必要になることを、ちょっとも上手く伝えることができなかった。それは不甲斐なくて情けないことだ。

 

わたしがひとつだけ覚えたケチュア語は、hermano kuna(綴りがあっているかは不明)。

スペイン語でamigos(=友達)にあたる言葉だが、hermanoはスペイン語では兄弟を意味する。英語圏でもそうだろうけど、スペイン語圏でもまた、非常に仲のいい親密なamigo(a)をhermano(a)と表現することもある。不思議な偶然。

そもそもhermano kunaはケチュア語にとっては外来語なのかもしれない。kunaは複数形を意味する言葉らしいので、きっとそうだろう。

鉱山などの中に飾られた守り神的な銅像は、tioと呼ばれるが、これはケチュア語には『神様』にあたる言葉がないために、スペイン語のtio(=おじさん)が使われているそうな。

オアシスに向かうバスにて

ラセレナからカラマに向かう長距離バスの中で目覚めると、アントフォガスタの少し手前を走っていた。景色は完璧に砂漠に変わっていた。

 

例えば、トレッキングや山登りの面白さは、数キロの中で自然が変化していくことにあるのだと思っている。標高差や日当たりや微妙な環境の違いで植生が変化したりして、それを感じるのが楽しかったりする。

でも、砂漠というのは逃げ場のないほど平等に陽が降り注ぎ、同様に雨は降らず、進めども進めども砂だけの景色が続く。この長い道のりに疲れた私を癒す、花も動物もいない。あるいはそれは非常に限られたものたちの仕事だ。

それでも、砂の丘は微妙な色の違いを持ち、むき出しのその肌は筋肉の隆起のような生々しい形を見せつける。変化に飢えた私は、その小さな違いにさえ喜びを感じる。何よりそこには生命を超えた生きた自然がある。

そして、向かう先には永遠に砂の丘と淡い青い空が続いていくのが見える。この先に小さくてもオアシスが待っていることを知りながらも、その終わることのない砂漠に不安を感じる。植物も動物も見えないこの砂漠を切り開こうとした人々、ここに街を作ろうと考えた人々は、果てしなく堅強だ。

あるいは、この永遠に続く砂漠の中で、わずかな生命が人々にそこを切り開く決意をさせたのかもしれない。

たべものと臓器

最近出会ったパキスタン人のカーンさん。50代なのにとても若々しい見た目なので、健康の秘訣を聞いてみると、『食』に関してかなり気を使っているようだ。

 

中でも面白かったのは、食べ物はその見た目の似ているところに効くという考え方。何でも子供のころからお母さんによく言われたそうで、パキスタンでは当たり前の考え方らしい(真偽は不明)。

例えば、くるみが脳を活性化させるのは、その形が脳みそに似ているからだそう。生姜は腎臓にいいけどあれも似たかたちをしているから。

それ以外にもトマトは赤いから血液がサラサラになり、牛乳は白いから骨にいい。その色やかたちで身体のどこに効くのかわかるという。

生姜と腎臓はやや無理があるような気もするけど、食べ物を別のものに見立てるという作業自体が面白く感じたのでした。